仕事が一段落し、遅めの昼休憩に入ろうとしていた里中を主任が呼び止めた。「里中、ちょっといいか? お前に電話がかかってきているんだが」「電話の相手って誰なんですか?」里中は受話器を受け取りながら尋ねた。「警察からだよ」「え?」(まさか長井の目が覚めたのか?)逸る気持ちを抑えながら里中は受話器に耳を当てた。「お電話替わりました、里中ですが。……はい……はい。え!?……そうですか。分かりました。後程そちらに伺います。え? 迎えに来てくれるんですか? ありがとうございます。連絡お待ちしています」やり取りの様子を野口はじっと見つめ、里中が受話器を切ると尋ねた。「警察の人、何だって?」「長井の目が覚めたそうです。俺にどうしても今日会わせたいって言ってきました。仕事が終わる時間に迎えに来るって言われました」「そうか……」「俺、まだ信じられないんですよ。あの長井がストーカー行為をしていた挙句の果てに、二度と歩けない身体になってしまうなんて。どうしてあんな事をしたのか、はっきりアイツの口から聞きたいんです。千尋さんにも怖い思いをさせ、俺にも嫌がらせの無言電話をかけてきてるのに、どうしてもアイツを憎むことが出来なくて……。俺って変ですか?」野口は黙って聞いていたが、やがて口を開いた。「やっぱり里中、お前っていい奴だな」「え?」「考えても見ろ、普通の人間だったら自分が親友だと思っていた相手にこんな裏切行為をされれば憎しみに替わると思うぞ? でもお前は、そうはならなかった。純粋な人間だってことだよ」「い、いや……単純馬鹿なだけですよ」里中はポリポリと頭を掻く。「里中、お前今日は早めに上がっていいぞ。警察にも連絡いれておいたらどうだ? 警察の方でも早めに協力して欲しいと思っているだろうから。17時にはあがっていいからな」「はい! ありがとうございます」野口に言われ、里中はあの後警部補に連絡を入れた——****—―17時仕事を終えた里中が職場から出てくると、既に病院の前にパトカーが待機していた。「里中さんですね? どうぞお乗りください」運転していたのは初めて見る警察官だった。「ありがとうございます」お礼を言って乗り込むとパトカーが走り出す。里中は窓の景色を眺めながら千尋のことを考えていた。「すみません、電話をかけてもいいですか?」
「渡辺さん、さっき電話がかかってきてたみたいだけど何の電話だったの?」接客を終えた中島が渡辺に尋ねた。「山手総合病院の里中って人から千尋ちゃんのことを聞かれたの。お休みだから伝言があれば伝えますって言ったけど大丈夫ですって断ってきたけどね」「え? 里中さんからだったの? 青山さんが休みだってこと知らないから電話してきたのね。何か進展あったのかしら……?」「千尋ちゃん、ヤマトがいなくなってさぞ心配でしょうね」渡辺がぽつりと言った。「本当にね……」「あ、店長こちらにいたんですね」突然男性が顔を出してきた。新しく雇った店員で年齢は29歳。千尋のストーカー事件をきっかけに中島は男性を起用したのであった。「ここの納品書で確認したいことがあるのですが」「分かった、原君。すぐに行くから」「お願いします」原と呼ばれた男性は、すぐ店の奥に顔を引っ込めた。「原さんて中々働き者ですよね」渡辺が言う。「そりゃそうよ、私が面接して決めたんだから。さて、仕事に戻りますか」「そうですね 」その時、自動ドアが開いてチャイムが鳴り響く。「「いらっしゃいませ!」」中島と渡辺は声を同時に揃え、接客へと向かった——****一方、その頃里中はパトカーを降りて警察病院の前に立っていた。「長井……」「里中さん! お待ちしてました」警部補自ら里中を出迎えに病院から出て来た。 「いや~すみません。わざわざご足労頂いて」並んで歩きながら警部補が話しかけてきた。「いえ、それより長井の目が覚めたって電話で教えて貰いましたが、どうですか? アイツの様子は」「いや~それが実はですね……ちょっと色々ありまして……」言葉を濁す警部補。「どうかしたんですか? アイツ、千尋さんにストーカー行為をしていたことを認めたんですか? それに自分がもう歩けなくなったことは話してあるんですよね? アイツが自分の罪を認めて改めるなら、俺は長井を自分の患者として受け入れてリハビリの訓練をさせたいと思ってるんです」「……」警部補は里中の話を黙って聞いている。「どうしたんですか? 何かありましたか?」里中は警部補の様子がおかしいことに気が付いて声をかけた。「里中さん、いきなり長井に会うと驚かれるかもしれないので、事前に伝えておきます。実は、長井は……」ガシャーンッ!! その時
床には割れた花瓶の破片と花が散らばり、びしょ濡れに濡れている。ベッドの上には顔を真っ赤にして涙でぐしゃぐしゃになりながら泣きじゃくっている長井がいた。周りにいる警察官達は引っかかれでもしたのか顔や手首などに赤い筋があり、血が滲んでいる。「皆出て行ってよーっ! うわーん! ママーッ!! どこにいるのー!?」「な、長井? お前、一体どうしたんだ?」里中はゆっくりと長井に近づこうとすると、今までにない程の憎悪のこもった目で睨まれた。「誰だ! お前は! 僕の前から消え失せろっ!!」長井は手元にあった時計を里中に向けて投げつけた。咄嗟によけた時計は激しい音を立てて床に落ちる。「だ、駄目です里中さん! ここは一旦引きましょう!」呆然とする里中の腕を引っ張ると警部補は強引に部屋の外へ連れ出した――「すみません! 警部補! 自分の見込み違いでした!」里中に会わせてみたらどうかと提案した警察官が頭を下げた。「むう……。いや、気にするな。長井の今の状態は誰の手にも負えないだろう」警部補は腕組みしながら唸る。「どういうことなんですか? 長井に何があったんですか? 説明して下さいよ!」里中は警部補に問い詰めた。「実は医者の話によると長井は幼児退行を起こしてしまったらしいんです」「幼児退行?」「原因はまだ分かっていませんが、例えば強いストレスやショック等の様々な原因により発症すると言われている精神疾患です。長井の場合、歩道橋から落ちて頭部を強打したのが原因か、もしくはその前に何か強烈なショックを受けて、あのような状態になってしまったのか……。まともに事情徴収出来る状態じゃないんです。おまけに誰がしゃべったか分からないが、二度と歩けない身体になったと本人に告げたようだし。こちらとしては長井が元通りになってから話すつもりだったのに……」警部補は深いため息をついて、里中を見た。「あなたに会わせれば、長井が元に戻るかと思ったのですが、逆効果だったみたいですね。かえって興奮させてしまったようだ。先程医者に注意されましたよ。大事な手術が控えているのにこれ以上患者を混乱させるなって」「……」里中は黙って話を聞いている。「とりあえず、長井の両親とは連絡が取れましたよ。実家が北陸のようで明日にはこの病院に着くそうです。」「長井の両親には全て話したんですか?」
夜の帳が下りて来た。すっかり暗くなってしまった部屋で千尋は膝を抱えて座ってる。警察官が帰った後、千尋は必死でヤマトを探し回った。長井が倒れていたという歩道橋の下にも行ってみたし、初めてヤマトと会った場所もくまなく探した。そして保健所まで捜しに行ったが、結局ヤマトを見つけることは出来なかった。もしかすると自分が不在の時に家に帰ってきているのではないかと思い、急いで帰宅してみれば予想は見事に覆された。 目の前にはヤマトの餌と水が置かれている。「ヤマト……」千尋は今日1日一切食事をとっていなかった。祖父が亡くなってから1日たりとも側を離れなかったヤマトがいない。胸にぽっかり穴が空いてしまったかのようだ。好きな料理を作る気力も残っていなかった。「どこへ行ってしまったの? ヤマト……あなたまでいなくなったら私本当に独りぼっちだよ……」千尋は肩を震わせて泣き続け、やがて疲れ果ててそのまま眠りについてしまった。「う……ん……」眩しい朝日が千尋の顔に当たった。「え?」千尋は慌てて飛び起きると自分の今の状態をぼんやりと考えた。「確か、昨夜はヤマトが帰って来るのをこの部屋で待っていて……それでそのまま眠ってしまった……?」時計を見ると6時を指している。床で眠ってしまった為、身体中がズキズキと痛む。「……取り合えずシャワー浴びよう……」ノロノロと起き上がり、着替えを自分の部屋から取ってくると脱衣所で服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びて着替えた。「食欲……無いな」昨日から何も口にしていないが、何かしら食べないと。そう思った千尋はバナナをカットしてガラス容器に入れると冷蔵庫から無糖のヨーグルトに蜂蜜をかけた。「いただきます」手を合わせ、ゆっくりと口に運ぶ。たった1人きりの食卓がこれ程寂しいものだとは思わなかった。「私って……こんなに寂しがりやだったんだ」千尋はポツリと呟いた。本来なら今日も仕事を休んでヤマトの行方を捜したかった。けれどもいつまでも店を休んで職場の皆に迷惑をかけるわけにはいかない。それに働いていれば寂しさも紛れる。「今日は出勤しよう」千尋は簡単な朝食を済ませ、片付けを終えると中島の携帯にメッセージを送った。『本日は出勤します。ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした』(お弁当、作り損ねちゃったからコンビニに寄ってから出勤
パートの渡辺は本日休みの日になっていたので、千尋はその分も接客やら配達等で退勤時間まで一生懸命働いた。常連客は久々に見る千尋の姿に喜び、多めに商品を購入していく客もあった——**** 1日の業務が終わり、シャッターを閉めた後中島は千尋に尋ねた。「青山さん、今日はこの後どうするの?」「本当はすぐにでもヤマトを捜しに行きたいところですが、家に帰ってヤマトを待ちたいと思います。家に戻ってきた時私がいないとヤマトが寂しがるので」「そう……ねえ、青山さん。ビラを作ってみる気はない?」「ビラですか?」「うん、ビラ。ヤマトの写真入りのビラを作るのよ。この犬を探しています。お心当たりの方は連絡を下さいって。連絡先はフロリナ>にして。この店にもビラを貼ってあげるから」「いいんですか?」「勿論、だってヤマトはこの店のマスコット的存在だったんだから。他にも得意先のお店とかにお願いして貼らせてもらうのよ」千尋の表情がパアッと明るくなった。「店長、それすごく良いアイデアですね! 是非お願いします!」「任せて、知り合いの人でDTPデザイナーの人がいるからビラを作ってもらえないか頼んでみるね。それじゃ、帰りましょうか?」「はい!」 中島は千尋と別れた後里中に電話をかけた。何回かの呼び出し音の後、里中が電話に出た。『はい』「もしもし、中島です」『こんばんは。連絡くれたんですね。千尋さんの様子はどうですか? ヤマトは見つかったんですか?』「それがまだ見つからないのよ。でもヤマトを探すビラを私が知り合いに頼んで作って貰おうかと思ってその話をしてみたらすごく喜んでくれたの」『俺にもヤマトを探すの手伝わせて下さい』その話に中島は驚いた。「大丈夫なの? 長井の面会に行くんじゃなかったの?」『もう長井とは会いません』「どうして? 何があったの?」『あいつ……頭がおかしくなってしまったんです。もう俺が誰かも分からなくなっていました。それどころかすごく憎まれているようで警察からも長井とは今後会わないように言われました。俺がいると余計長井の具合が悪化するって』「そうだったの…」『時間が取れる限りヤマトを探す手伝いをしたいので、ビラが出来上がったら俺にも分けて下さい。お願いします』「本当にお願いして大丈夫?」『はい。うちの病院の患者さん達もヤマトに会いた
12月に入り、世間はクリスマス一色に染まっていた。<フロリナ>でもクリスマス用にアレンジされた植木鉢や小ぶりなもみの木、ゴールドクレスト、リース等が店頭に並び、それらを買い求める客で店内は賑わいを見せ、千尋をはじめ店員たちは対応に追われていた。 ようやく客足が途絶えたのは13時を回っていた。「青山さん、原君、遅くなったけど昼休憩に入っていいわよ」「え? 俺も青山さんと同じ時間帯に昼休憩入っていいんですか?」原は首を傾げた。「大丈夫よ、気にしないで行ってきて」「良かった~腹が減ってどうしようもなかったんですよ。助かります!」言うが早いか、原はエプロンを外すとすぐに外へ食事をしに行ってしまった。「店長はどうするんですか?」千尋は尋ねた。「あ~私は昼休憩はいいわ、でも3時のおやつ休憩は多め長めに取らせてね」「分かりました。それじゃお昼行ってきます。休憩室にいるので何かあったら呼んでくださいね」「あら、いいってば。お昼休みはしっかり休んで。そうじゃないとブラック企業なんて世間で言われちゃうから」中島は冗談めかして言った。「はい、では遠慮なくお昼休憩取らせていただきます」クスリと笑うと千尋は休憩室へ入っていった。 休憩室は広さ6畳ほどの部屋で、木目調の丸い食卓テーブルセットと食器棚が置いてある。壁際にはソファベッドも置かれて居心地の良い空間になっている。電子レンジやポット、ガス台に流し台もあるのでちょっとした料理も出来るので非常に便利である。千尋はヤカンでお湯を沸かすと、食器棚からペーパーフィルターとドリッパー、それに昨日コーヒーショップで挽いてもらったコーヒーをセットしてお湯を注いだ。部屋中にコーヒーの良い香りがする。「そうだ! 店長にもコーヒー淹れて持って行ってあげよう」食器棚に置かれている中島のコーヒーボトルを取り出すと千尋は慎重にコーヒーを注いで蓋を閉めた。店の様子を覗いて見ると中島は丁度接客中だったので千尋は一度顔を引っ込めてメモを書いた。<コーヒーを淹れたのでお手すきの時にどうぞ —青山>メモとコーヒーボトルを店内に置かれているデスクに置くと、休憩室に戻った。今日のランチは手作りのサンドイッチである。バゲットにレタスやハム、キュウリを挟んだもの、もう一つはスクランブルエッグを挟んだバゲットだった。「いただきます」
この2か月の間に様々な事があった。千尋をストーカーしていた長井の元へ両親は事件後、警察に呼ばれて上京してきた。特に母親は変わり果てた息子を見て、その場で泣き崩れてしまったと言う。その後、息子の手術に必要な書類の同意書にサインをし、無事に手術が終了すると長井を車椅子に乗せて地元北陸へ戻って行った事を千尋は警察官から聞かされた。結局、長井は重度の精神疾患で責任能力が無い。と言うことで罪に問われることは無かった。警察の話によると、未だに長井は精神状態が回復することは無いばかりか、ますます意思疎通が出来なくなってきていると言う。しかも白い犬に対して異常なほどの恐怖心を抱いているらしい。(一体、ヤマトとあのストーカー男性との間でどんなことがあったんだろう……。あんな状態で無ければ人づてにヤマトのことを聞けるのに)時々、千尋は考える。あの時自分にもっと勇気があればヤマトがいなくなってしまう事態にならなかったのでは無いかと。「ヤマト……」千尋はポツリと呟いた——****「里中、クリスマスイブの日、何か用事あるか?」仕事が終わり、ロッカールームで着替えをしていると、後から入ってきた近藤に声をかけられた。「何すか? 先輩。別に用事なんか無いですけど。って言うかそれ分かってて聞いてますよね、絶対!」里中は仏頂面で言った。「いやあ~実はこの日、彼女とデートなんだ。悪いけど俺と遅番変わってくれないかと思って。お前、確かこの日は早番だったよな? やっぱりクリスマスイブって特別なものじゃん? 昨日奇跡的にお洒落なイタリアンの店の予約を取ることが出来たんだよ! この店、すごく人気あるんだ。彼女に予約取れたこと話したら大喜びしてたぜ。男なら彼女と二人でロマンチックなクリスマス祝いたいって誰だって思うだろう? な? 頼むよ」パンッと近藤は手を合わせ、里中を拝むような態度を見せた。「……じゃ、条件があります」「ん? 何だ? 条件って?」「明日の夜、俺に酒奢ってくれたら替わってあげますよ!」「な~んだ、そんなことか。いいって、いいって。俺とお前の仲だ。好きなだけ奢ってやるよ!」「いいんですか? 先輩そんなこと言って。俺、浴びるほど飲みますよ?」「おう! 望むところだ!」有頂天になってる近藤を尻目に里中は深いため息を吐いた。「あ~俺も彼女欲しい……」正直な
「うわあっ!?」突然現れた男に里中は驚きのあまり、締まりのない声をあげてしまった。「な、何だよ? いきなり突然現れて! お前、誰だ?」まだドキドキする胸を押さえながら里中は男に言った。「え……と、僕はここの病院の守衛をしている者です。あなたに謝りたいことがあって」「謝りたいこと?」里中は守衛の顔をまじまじと見た。そして……。「あ~! お前、一度だけ千尋さんのことについて俺に聞いてきたことがあった奴じゃないのか?」「はい、そうです……」男はうなだれている。「俺に声をかけてきたってことは何か話があるんだろう?」「……どうしてもあなたに謝っておきたい話があって」「謝りたい話?」「実は、長井さんに脅されて花屋の女性の情報を漏らしていたのは僕なんです」「何だって?」里中は守衛の男から突然長井の名前が飛び出してきた事に緊張が走った。「一体、どういう意味なんだ?」「実は僕、長井さんとは昔からの知り合いで……色々便宜を図ってくれてたんですよ。僕っていかにも駄目人間に見えるじゃないですか? と言っても中身も本当に駄目人間なんですけどね。この仕事を紹介してくれたのも長井さんのお陰なんです」里中は一言も聞き漏らすまいと耳を傾けている。「そんなある日、長井さんに言われたんです。病院に花を持って来てくれる女性は何処の誰なのか教えろと。ほら、業者の人達も守衛室で受付する為に名前を書くじゃないですか? それで僕に聞いてきたんです」里中は黙って聞いている。「そこで僕は彼女がいつここに来ているのか、どこから花を届けに来てくれているのか調べて長井さんに報告していたんです」「……俺の事を長井にしゃべったのもお前の仕業なのか?」「い、いえ! それは絶対に違います! あなたのことは偶然駐車場にいる花屋の女性と会ってるのを長井さんが見つけて、嫉妬にかられたんだと思います。今まであんな恐ろしい目をした長井さんは見たことがありませんでした」「そうか、やっぱりあの視線は長井だったのか。でもどうして今頃になってそんな話を俺にしたんだ?」「僕、今月いっぱいで仕事を辞めることにしたんです。実は長井さんの件で警察の人が何度もやってきて職場の人達にも長井さんが犯罪者で、僕は長井さんの紹介で働いていることも知られてしまったんです」「……自分の意志で仕事辞めるのか?」里中
「おはよう、青山さん」 11時、遅番の中島が出勤してきた。「おはようございます。店長」千尋は花の世話をしながら挨拶をした。「あら? 今朝は渚君の姿が見えないわね? いつも遅番の誰かが出勤してくるまでにはお店にいるのに」「実は渚君、新しい仕事が見つかって本日から仕事始まったんです」「え~そうなの? 仕事何処に決まったの?」「それが、何と山手総合病院にあるレストランで働くんですよ」「え? まさかあの病院のレストランで? 一体どういう経緯でそうなったの?」「この間、病院に生け込みの仕事に行ったときにリハビリステーションの野口さんからコーヒー券頂いて二人でレストランに行ったんです。その時に人手不足で困っている話を聞いて、その場で面接して採用されたそうですよ」「ふ~ん、それじゃ今日は初日ってわけね?」「はい。…上手く行ってるといいんですけど」千尋は新しい職場で働いている渚に思いをはせた……。****「おい、里中。今日の昼飯どうする?」昼休憩に入ろうとする里中に近藤が声をかけた。二人でお酒を飲みに行って以来、何かとつるむ仲になっていたのだ。「う~んと……特に考えてないすけどね」「それじゃ、新しく院内に出来たレストランに行ってみないか? ほら、職員割引がきくし」そこへ同じリハビリスタッフの30代の女性職員が声をかけてきた。「あ、お二人ともレストランに行くんですか? 私もさっき行って来たんですよ。何でも今日から若い男性が働いているらしくて、ものすごーくイケメンなんですって。院内の女性職員達が騒いでました。私はあいにくその男性に会うことが出来なくて残念だでしたよ」「へえーっ。そうなんだ。でもヤローには興味ないなあ。どうせなら若くて可愛い女の子が良かったのにな」女性職員が去った後、近藤は言った。「何言ってるんすか。先輩、彼女いるじゃないですか。いいんですか、そんなこと言って」「バッカだなー。勿論俺は彼女一筋だよ、でも目の保養する分にはいいんだよ」「まあ、イケメンはどうでもいいですけど新メニューは気になりますよね。行きますか? 先輩」「おう! 行ってみるか」****「うっわ! なんじゃこりゃ。すげー混んでるな」レストランのテーブル席は満席だった。しかも良く見ると女性客が多い気がする。「ふーん、皆そのイケメンとやらに興味があって来
「う、うん……。別にいいよ?」千尋が手を伸ばすと渚はそっと握った。渚の手は大きく、千尋の小さな手はすっぽり覆われてしまう。(うわあ。大きい手、やっぱり男の人なんだなあ)渚を見上げると、耳を赤く染めている。「何だか……ちょと照れちゃうね」渚が顔を赤らめながら言うので千尋も何だか気恥ずかしくなってしまった。「そ、そう? それじゃやめる?」すると渚は千尋の手をギュっと握りしめた。「やめたくない、こうしていたい」何だか子供みたいにむきになっているようにも見える。千尋はそんな様子がおかしくて微笑んだ。**** それから二人は手を繋いで街を散策した。 本屋さんでは一緒に料理の本を探したり、未だにパジャマを持っていなかった渚の為にパジャマを選んだり、雑貨屋さんではお揃いのマグカップや食器を買ったりした。 お昼は最近テレビや雑誌でも取り上げられているアジアンテイストなカフェで渚が選んだ店だった。混雑時間を避けて行ったので、幸いにもすぐに店に入ることが出来た。この店はカフェであるが、ランチメニューには和食を提供すると言うことで話題を呼んでいる。 「渚君、いつの間にこんなお店見つけたの?」席に着くと早速千尋は尋ねた。「実はさっき、本屋に行ったときにこのお店が雑誌で紹介されていたんよ。今日の朝ご飯はトーストだったからお昼は和食がいいかなと思ってこの店を選んだんだ」渚と千尋は二人で<本日のおすすめ>を選んだ。木のお盆に乗せて運ばれてきたのは、玄米ご飯に豚汁、大根おろしの付いたホッケの焼き魚におひたしである。「うわあ……美味しそう。玄米ご飯なんて素敵」「そうだね、この店に決めて良かったよ」味は文句なしに絶品だった。渚は特に豚汁が気に入ったようで、どんな具材が入っているのかメモした程である。 食事を終えた後は、駅の構内にあるカフェに入り、二人でコーヒーとケーキセットを食べ……気が付くと時刻は17時を過ぎていた。「渚君、そろそろ帰ろうか?」千尋は椅子から立ち上がって声をかけた。「うん……そうだね」電車の中で、今夜のメニューは何にするか話し合った結果、家でパスタを作って食べることに決めた。「私が今夜は作るね。何味のパスタがいい?」「僕は千尋が作ってくれるならどんな味だっていいよ」「それじゃ、クリームパスタにしようかな? 材料買いたいか
「そうだね、特に何も予定無いから一緒に出掛けようか?」「本当? 今日1日僕に付き合ってくれるの? やった! 言ってみるものだね」渚は大袈裟なほど喜んでいる。正直、そこまで喜ばれると何だか千尋は照れ臭い気持ちになってしまう。(まさか、そこまで喜ぶなんてね)「でも、出かけるって言っても何処へ行こうか?」「それなら大丈夫! 実はね、ずっと前から千尋と一緒にやってみたい事を色々考えてたんだ。え~と、例えば公園に行ってボートに乗ったり、手作りのお弁当を持って動物園や遊園地に行ってみたり、車をレンタルしてドライブに出掛けたり……」渚は指折り数える。「渚君……そんなに色々考えてたの?」「でもね、これはまた別の日のお出かけプランだから。今日は別」「? それじゃ何をするの?」「千尋はお休みの日に出掛ける時はどんなことをするの?」「う~ん……特にこれといっては無いけど。でも友達と出かける時はウィンドウショッピングをしたり、お洒落なカフェに入ったり、本屋さんとか雑貨屋さんに行ってみたり、そんな感じ」「じゃあ、今日は僕とそれをやろう?」「ええ? こんな単純なお出かけでいいの? 大して面白くないけど?」「僕はね、千尋が普段お休みの日に何をして過ごしているか知りたいし、共有したいんだ」渚は千尋を見つめる。(あ、またこの目だ……)渚の目は熱を帯びたように千尋をじっと見つめている。この目で見つめられると千尋は何だか落ち着かない気持ちになる。普段は男を感じさせないのに、この目をされると一人の男性として意識しそうになってしまう。「それじゃ……渚君がそうしたいなら、それでいこうか?」「うん、決定だね」先程の表情は消えて、普段通りの無邪気な笑顔に戻っていた――*** 目的の場所は千尋が住む駅の5つ先の駅だった。駅を出て歩きながら渚が尋ねてきた。「千尋はどこで買い物やカフェに行ったりするの?」「ここはね、沢山のデパートがあるし、海外からやってきた話題のインテリアのお店や雑貨屋さんやカフェ、何でも揃ってるんだよ」「へえ~楽しみだな」今日の渚は紺色のスウェットの上にグレーのチェスターコートを羽織り、デニムスキニーをはいている。外見もさることながら、モデル並みの体形もしているので道行く若い女性たちが振り返って渚を見ている。(やっぱり、こうしてみると渚君て格好
ピピピピ……目覚まし時計が千尋の部屋で鳴っている。「う~ん……」半分寝ぼけながら時計を止めて、洋服を着たまま眠ってしまっていたことに気付いた。「やだ……私、服の…ま眠っちゃったんだ。でもいつの間にベッドに入ったんだろう?」渚と2人でワインを1瓶空けてしまったことまでは覚えている。「え~と、その後は……? どうしたっけ?」全く記憶が抜け落ちている。「酔っぱらったまま自分で部屋に移動したのかな? とにかくお風呂に入らなくちゃ」化粧も何も落とさないで眠ってしまったのだからお風呂に入ってさっぱりしたい。「渚君は起きてるのかな?」着替えを持って廊下を歩いていると、台所から気配を感じる。覗いて見ると、やはりそこには渚がいて朝食の準備をしていたところだった。「おはよ……。渚君」千尋は遠慮がちに声をかけた。「あ、おはよう千尋。昨夜はお風呂入らないで眠っちゃったでしょう? 沸かしておいたからお風呂に入っておいでよ。その間に朝ご飯の準備をしておくから」渚は笑顔を向けてくる。「あ、ありがと……。何だか渚君にお世話されっぱなしで申し訳ないね。何かお礼しないとね。何がいいか考えておいて」「いやだな~。前から言ってるよね? 僕が勝手にやってるだけなんだから、そんなこと気にしないでよ」「でも、それじゃ私の気持ちが……」「う~ん。それじゃ何か考えておくね」「よろしくね。それじゃお風呂入ってくるね」****「ふ~気持ちいい。朝からお風呂なんて贅沢してるみたい」千尋はお風呂の中で大きく伸びをした。本当に渚と暮らし始めてからは世話になりっぱなしだ。「渚君、何か考えておいてくれてるかな?」お風呂からあがり、ドライヤーで髪を乾かしてから台所に行った。「あ、千尋。丁度良かった、今朝ご飯の準備が終わったところだよ」今朝渚が用意した朝食は、トーストに目玉焼き、ベーコンにボイルしたウィンナーとサラダ。そしてトマトジュースである。「トマトジュースはお酒を飲んだ翌日に飲むのに最適な飲み物なんだよ。食後は千尋のお気に入りのコーヒーを淹れるね。冷めないうちに食べよう?」「ありがと、渚君」千尋がテーブルに着くと、渚も座った。2人向かい合わせに座ると手を合わせた。「「いただきます」」「ほんと、渚君の作った料理って見栄えもいいけど味も最高だよね。私も負けないように
「じゃーん! 見て、千尋。今夜は腕によりをかけて料理を作ったよ!」渚は笑顔で大袈裟に両手をテーブルの上で広げた。「うわあ……すごい!」千尋はテーブルの上に並べられた料理に目を見張った。トマトソースのラザニアに野菜のグリル焼き、ハーブを効かせた焼き魚にパセリを散らしたポタージュ。どれもが素晴らしい出来栄えだった。「さあ、座って千尋」今夜も渚は紳士的に椅子を引いて千尋を座らせる。千尋がテーブルに着くと、渚は言った。「千尋、今夜はお祝いだよ」そしてワイングラスを2つ並べ、赤いワインを注いだ。「明日仕事がお休みなんだし、たまにはお酒もいいでしょう?」「あ、お祝いと言うことは……面接大丈夫だったの?」「うん、明後日から仕事だよ。さ、乾杯しよ?」「そうだね」千尋は笑みを浮かべて返事をした。「「乾杯」」二人はグラスを合わせた。「家でワインなんて飲むの久しぶり……。普段飲むのってチューハイばかりだったから」千尋はうっとりしたようにグラスを傾けて口にした。「う~ん! 美味しい!」「良かった。千尋に喜んでもらえて」 それからしばらくの間楽しい時が流れたが、やがて千尋は我に返った。「あ、でも待って。本当は私がお祝いする立場だったんじゃないの?」いつの間にか、あれ程あった料理は殆ど食べ終わっている。「ごめん……。今更だよね。もう殆どご馳走食べつくしておいて……」「どうして? だってようやく千尋のお金の負担を減らせるようになったんだから。今夜はそのお祝いなんだよ?」「え? お金の負担を減らすって……?」(まさか仕事が決まったから早々にこの家を出るって言うのかな?)「実はね。仕事も決まったし、千尋に大事な話をしたいんだ」渚は言い淀んだ。千尋は両手をギュッと握りしめて話を聞いている。「言いにくいんだけど……最初に会った時に話した事だけど、仕事が決まるまでの間、住まわせて欲しいって話……無かったことにして欲しいんだ」「え?」「あ~つまり、仕事は決まったけど、ここの家に置いてもらいたいんだ。駄目かな?」上目遣いに千尋を見る。「……」黙って話を聞いている千尋を見て渚は不安に感じたのか、言葉を続けた。「これからはお給料も貰えるから、生活費だって千尋に渡せる。ううん、僕のお金なんて全部渡しても構わないと思ってる」縋るような目で千尋
渚が面接を受けに行ったすぐ後に千尋も病院を後にした。<フロリナ>に戻って午後も接客や花の手入れ等で忙しく働き、千尋が仕事を上がる直前に渚が店を訪れた。「千尋、迎えに来たよ。一緒に帰ろう?」心なしか渚の声はいつも以上に明るかった。「渚君、迎えに来てくれたの? 忙しかったんじゃないの?」千尋は渚が買い物袋を提げているのを見て尋ねた。「大丈夫だよ、もう食事の準備は出来てるから。これはちょっと買い足してきた分なんだ」そこへ中島がやってきた。「渚君。毎日青山さんのお迎えご苦労様」「いいえ、僕は渚と一緒に帰りたいから迎えに来てるだけですよ」「む……相変わらずはっきりと言うわね。余程青山さんが大事なのね?」「勿論です! 千尋は僕にとって物凄く大切な人です」笑顔ではっきりと渚は言い切った。「おお~。相変わらずストレートな物言いをするわね……」質問した中島の方がむしろたじろいでいる。「な、渚君! 声が大きいってば!」千尋は慌てて小声で注意した。「あ、ごめん。つい大きい声出ちゃった」周囲にいた若い女性客たちも渚の発言が聞こえていたのか、ヒソヒソささやきあっている。「ねえ~聞いた? 今のセリフ」「うん、聞いた聞いた」「羨ましいなあー。一度でもいいからあんな風に言って貰いたいね~」「あの店員の女の子、羨ましいね」すっかり千尋は注目の的だ。(だから違うのに……)千尋は心の中で思った。渚は自分に愛情表現を向けてくるけれども、それはどうも男女の愛情表現とは違うように感じていた。そう、まるで家族。しかも親子関係に向けられる愛情表現のように感じられるのだった。だからこそ千尋も渚と同居生活を続けていられる。千尋自身、渚を一人の男性として意識してみたことは無かったし、多分この先も無いだろうと考えていた。「じゃあ、すぐに帰る支度するからお店の外で待っててくれる?」「うん、分かった。外で待ってるね」渚は素直に言うことを聞くと店の外へと出て行った。「渚君て青山さんの言うことなら何でも聞くよね?」中島が言った。「え? 本当ですか? 私そんなにしょっちゅう命令してますか?」「あ、ごめん。そういう意味じゃないのよ? まるでご主人様と飼い犬のような関係のようなって、あ~私ったら一体何しゃべってるのかしら…!」そこへ一人の女性客が声をかけてきた。
千尋と渚は病院内部にあるレストランにやってきていた。「うわあ~病院の中にあるとは思えない綺麗なレストランだね」渚は辺りを見渡しながら感嘆の声をあげる。「本当。とっても広いしメニューも豊富で美味しそう」千尋はレストラン入り口にあるメニューを模した沢山のサンプル食品を見つめた「早く中に入ろうよ、千尋」笑顔で渚は手招きし、2人はレストラン中央のテーブル席に座ったが、中々店員がやって来ない。「店員さん、来ないね」千尋は渚に小声で話しかける。「そうだね。僕が直接頼んでくるよ。何だか忙しそうだから」待っててと言うと渚は店員を探し回り、見つけた男性店員に声をかけに言った。そして暫く話し込んでいる。「? 何話し込んでるんだろう?」千尋は不思議に思った。やがて話を終えた渚が戻ってくると千尋は尋ねた。「どうかしたの? 渚君」「うん。実はね、この店オープンしたてで人手が足りなくて困っているらしいんだ。だからここで僕を働かせてもらえないか聞いてみたんだよ。丁度新しい仕事探していたしね。悪いけど千尋、この後面接したいって言われたから先に帰っていて貰えないかな?」「そうだったの。分かった。それじゃコーヒー飲んだら先に帰るね。あ……でも大丈夫? ここからどうやって帰るの? 歩くには遠いし」<フロリナ>から山手総合病院までは車で15分はかかる。歩くには少し距離が離れすぎている。「大丈夫、駅前までバスが出ているから帰りはそれに乗って帰るよ。面接が終わったら一度帰って家の事終わらせたら千尋の帰る時間に迎えに行くからさ」その時、ウェイターが2人の間にコーヒーを2つ運んできた。「お待たせいたしました」テーブルの上にコーヒーを置くと「ごゆっくりどうぞ」と言って去っていく。渚はコーヒーの香りを早速嗅いだ。「へえ~。すごくいい香りがする。中々良いコーヒー豆を使っているみたいだよ」千尋も言われて香りを嗅いでみるが、渚と違って違いが分からない。「う~ん……。私にはあまり違いが分らないかなあ?」「アハハッ、そりゃそうだよ。僕はコーヒーにずっと触れて仕事してたから分かるけど、普通の人には匂いだけじゃ中々分からないと思うよ?」そこから少しの間、2人はコーヒータイムを楽しんだ……。「ごめんね、千尋。一緒に帰れなくて」コーヒーを飲み終えた渚が席を立った。「ううん、
遠目から里中や千尋達の様子を患者のマッサージを終えた近藤が見ていた。「ふっ、後輩思いの俺が何とかしてやろうじゃないか」患者を見送ると近藤は千尋達の方へ行き、声をかけた。「お疲れ様、千尋ちゃん」「あ、こんにちは。近藤さん」丁度千尋が生け込みの仕事を終了したところであった。「うん、いいねえ~。このお花の飾りつけ。まさにクリスマスって感じがする」赤い薔薇やゴールドに染められたマツカサを取り入れた生け込みはとても美しかった。「ところで、君は誰なんだい?」渚の方を向くと尋ねた。「僕は間宮渚。今千尋の家で一緒に暮らしてます」千尋が止める隙は無かった。それを聞いて流石の近藤も驚いた。「え? えええっ! 一緒に暮らしてる? 千尋ちゃん、確か一人暮らししてたよね?」「は、はい……。そうでした。以前は」「何? それじゃ本当に一緒に暮らしてるわけ? この男と?」近藤は千尋と渚の顔を交互に見ながら尋ねた。「はい、そうです。今は僕が千尋の代わりに家事をやってますよ」すると渚が答えた。「あ、もしかして親せきかな~なんて」「違います、親戚じゃないです」「じゃあ、全く赤の他人……?」「は、はい、そうなんです……」千尋は困ったように返答した。「え~と、渚君だっけ? どうして千尋ちゃんと一緒に暮らしてるんだ?」近藤はじろりと渚を見た。「おい、近藤。お前首を突っ込すぎだろ?」そこへ野口が現れた。「あ、主任……」「青山さんと彼の事にお前は関係ないんだから詮索するのはやめるんだ。それより、もうすぐ次の患者さんが来るんだから準備してこい」「は、はい!」近藤は慌てて持ち場へと戻って行った。「すみませんね。里中も近藤も悪い奴らじゃないんですが」「いいえ、いいんです。全然気にしてませんから」千尋は荷物を手に取った。「行くの? 千尋」「うん、終わったから戻ろうか?」「それじゃ、失礼します」千尋が主任に挨拶すると引き留められた。「ちょっと待って下さい。はい、これどうぞ」千尋に2枚の券を渡してきた。「これは?」「実はこの病院のレストランが新しく改装されたんですよ。そのオープン記念として病院スタッフには無料のコーヒー券が配られたんです。良かったら二人で帰りに寄ってみたらどうですか?」「でも、貰う訳には……」「大丈夫、実は役付きのスタ
「あの男は……!」その顔に里中は見覚えがあった。(数日前に千尋さんと花屋の前で見つめあっていた男だ!)「あれ~誰だ? あの男。新しい花屋の店員かな? それにしても高身長だし、ルックスもいい男だな。まるで芸能人みたいだ。な、お前もそう思わないか?」お気楽そうな近藤の物言いが何故か癪に障る。現に近藤の言う通り、周囲にいる女性陣から注目を浴びていた。「え? お、おい。どうしたんだよ里中」近藤が止めるのも聞かず里中は二人に近づくと声をかけた。「こんにちは、千尋さん」「あ、こんにちは」千尋はペコリと頭を下げた。「こんにちは」渚も千尋にならって里中に挨拶をしたので、近藤は渚の方を見た。「初めまして、俺はここのスタッフの里中と言います。いつも千尋さんにはお世話になっています」「里中さんて言うんですね。僕は間宮渚です。よろしくお願いします」渚はいつものように人懐こい笑顔を浮かべた。(ちっくしょ……。確かに負ける……)渚の身長は里中よりも10㎝は高いだろうか。当然見上げる形になってしまう。しかも外見も申し分ないときているので嫌でも劣等感を抱いてしまう。そこへ野口がやってきた。「ああ、青山さん。本日もよろしくお願いします」「こんにちは、野口さん。12月になったので今日からクリスマスをイメージした飾りつけにしていこうと思ってるんです」「それは素敵ですね。患者さんやスタッフ皆楽しみにしてますよ。ところでこちらの方は? 新しい店員さんですか?」「僕は……」渚が言いかけると、それを制するように千尋が代わりに答えた。「え、ええ。そんな所です。運搬作業を手伝ってくれたんです。渚君、この方はここリハビリステーションの主任で野口さん」「初めまして」渚が頭を下げた。「ああ、こちらこそよろしく。……おい、里中。お前いつまでそうしているんだ? 早く仕事に戻れ」野口はいつまでもその場を動こうとしない里中をじろりと見た。「あ、す、すみません! すぐ戻りますんでっ!」里中は慌てて持ち場へと戻って行った。 患者のリハビリ器具を取り付けながら里中はフロア内で花の飾りつけをしている二人をチラチラ見ている。よく観察してみると飾りつけをしているのは千尋のみで渚は千尋に花やリボンを手渡しているだけである。(あの渚って男……役にたってるのか?)「……君。ねえ、里